船場という土地

大阪の歴史は古墳時代にまで遡りましょうし、古代においては長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)、難波宮(なにわのみや)として、幾度か日本の 首都となっていた時代もありました。しかし、現代の大阪に直接つながる都市としての歴史は、石山本願寺の門前町(寺内町)として栄えた中世末期以降となりましょう。

安土桃山時代には近世都市大坂が誕生し、船場ビルディングのある淡路町を始め、瓦町、安土町、平野町など現在に続く町名も誕生しています。以 降江戸時代を経て現在に至るまで、大大阪の都心のど真ん中であり続けている、それが船場です。

近代以降、大阪は商工業都市として大きく発展しますが、船場は特に「糸偏」つまり繊維産業の街として栄えました。繊維産業は国家の基幹をなすものでしたから、その繁栄は近畿のみならず、全国的なものとなっていったのです。現在も船場ビルディングの真向いは大阪毛織会館ですし、周囲には 綿業会館(日本綿業倶楽部)、輸出繊維会館、丼池繊維会館など、繊維業界の建物が非常に多く立地しています。

また、船場ビルディングがある淡路町通の一本北の平野町通は戦前、心斎橋筋と並ぶ繁華街となっていたところです。東京でモボ・モガが銀座を闊歩 し「銀ブラ」という言葉がはやっていたころ、大阪は「心ブラ」「平ブラ」で賑わっていたのです。従って堺筋(御堂筋ができるまで大阪のメインスト リートでした)と平野町通の交差点に高く時計台を掲げる生駒ビルヂング(生駒時計店)は、東京・銀座四丁目交差点角の和光(服部時計店)と共に、 モダンエイジを象徴する時計台だといえましょう。

さらに一本北の道修町(どしょうまち)通は、近世以来の薬種問屋街として有名です。今も武田薬品工業(1781年、初代が近江屋喜助より別家独 立し近江屋竹田長兵衛商店創業)、塩野義製薬(塩野屋藤兵衛から1808年に塩野屋吉兵衛として別家独立、1878年より塩野義三郎商店)、三菱 田辺製薬、住友大日本製薬、カイゲンファーマ(改源)など、名だたる薬品メーカーが軒を連ねています。接着剤「ボンド」で知られるコニシ株式会社 (小西儀助商店)の威風堂々たる豪商の町家は、国指定重要文化財です。

因みに、大阪の都心部は京都と同じく完全な碁盤目状となっていますが、東西の道が「通り」、南北の道は「筋」と命名されています。本町通、長堀 通、土佐堀通、千日前通、そして御堂筋、堺筋、四ツ橋筋など。船場ビルディングを出てすぐ西側の三休橋筋は、日本基督教団浪花教会、吉田理容所、 綿業会館、まむしの柴藤(しばとう)など美しい近代建築や老舗が並ぶ通りで、瓦斯燈が設置されていることでも知られています。また、船場地区の町 名は全て「○○まち」と読みます。

なお、船場と呼ばれるエリアは北は土佐堀川、南は長堀川、東は東横堀川、西は西横堀川という四本の運河に囲まれたところなのですが、西横堀川と 長堀側は現存しません。また更に東には上船場(この呼び方は明治以降廃れた)、西には西船場と呼ばれる地域が広がっていて、西船場も合わせて船場 と呼ぶことがあります。